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過剰な自己愛と自己否定ーありのままの自分を受容して好きになる...

過剰な自己愛と自己否定ーありのままの自分を受容して好きになることー

 2017/03/30  52Views

ありのままの自分を受け入れるってどういうことだろう。
それってどういう意味があるのだろう。
ありのままの自分を受け入れることって何かいい意味があるんだろうか。
ありのままの自分を肯定できなくって苦しい。

今日は、そう思っている方への処方箋を書いてみたいと思います。
アナ雪の主題歌でも口ずさみながら。

ありのままを受け入れるとは何か。
それを明らかにするために、ありのままを受け入れない状態とはどういうことかを考えてみたいと思います。

まずぱっと思い浮かぶのは、過剰なまでの自己否定です。
本来の姿以上に自らの価値を低く見てしまう状態です。
私なんて、俺なんて、皆と比べていろいろ劣っているんだと。
そう考えて自分に自信を失ってしまう状態があげられます。

一方で、過剰なまでの自己愛にとりつかれた状態も、ありのままを受け入れているとはいえないでしょう。
私は周囲とは違うんだ、俺はやればできるやつなんだ、周りが悪いんだ。周りがバカだから理解しないだけなんだ。特別扱いを受けるのは当然なんだ。俺に欠点なんてないんだ。
この態度は、自信を持っている状態とは似て非なるものといえましょう。他者の声に耳を傾けず、自分のマイナス面に目を向けない(目を背ける、見えないものとして扱う)ことから出発しても、本当の自信には結びつかないような気がします。

ありのままを受け入れるキーワードは自己受容と適正な自己愛です。
自分を受け入れる、そのまま生きていていい存在として受け入れるということと、自分を適度に愛するということです。
このような態度は、「過剰なまでの自己否定」や、「過剰なまでの自己愛」よりも、より人生を生きやすくしてくれるのではないかと思っています。

過剰なまでの自己否定は、自分のいい部分を見ないので、周囲の褒め言葉も素直には受け取れません。
「可愛いよね」→でもお世辞でしょ?
「すごく素敵だと思うよ」→みんなに言っているんじゃないの?
「モテるでしょ?」→はいはい、お世辞ありがとう!
周囲の言葉を素直に受け取れないばかりか、自己愛のない状態が、あなたを愛してくれる、あなたを慕ってくれる他の人をやわらかく傷つけることがあります。

二村ヒトシさんは、「なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか」という著作で、このことを次のように表現していました。

「あなたの欠点そのものが人を傷つけたり迷惑をかけたりしてることって、じつは(あなたが思っているほどには)そんなにない。(略)ほんとは「欠点そのもの」よりも、あなたが自分の欠点について抱いてる劣等感や罪悪感といった自己否定の気持ちの方がはるかに他人にとって迷惑だし、しばしば人を(とくに「あなたに恋をした人」や「あなたを愛してる人」を)傷つけるのです。」

例えば一般論として。僕なら、「可愛いよね」って褒めた場合、「いやいや、そんな」って言われたりするより、「ありがとう」と言われたり、笑顔でおちゃらけて「でしょー」と言われたほうがよっぽど魅力的に映ったりする。最初の一度や二度は「いやいや、そんな」は「そういう個性なのかな」という感覚を持つけど、褒め言葉がストレートに受け取られない状態が続くと、「この人は気持ちを素直に受け取ってくれないのかな」と不安になったりもします。そうして、その状態がさらに続くと、接している側がどんどん疲れていったり、マイナス感情が伝染したりもするのです。おそらくはね。

もうかなり前の日記に書いたことがあるのですが、生まれ変わったら・・・・という話をある女友達としていたときに、その友達は「私は生まれ変わっても絶対に自分になりたい」とはっきり言っていたことがあります。ここまで自己を受容していると、見ている側としても気持ちいい。そういう感覚になったりもするのです。そして、そういう態度は、間違いなく周囲の人も明るくするように思います。

今、とりあえず男性側からの感覚を述べましたが、女性側もこういう気持ち、あるんじゃないかな。自己否定傾向の強い男子とずっと接していると女子も疲れるだろうと思います。

別の問題として、自己否定が過剰になりすぎると、ありのままの自分が受け入れられないという気持ちが強くなりすぎて、いろんな人に自分を合わせてしまったり(合わせない自分は嫌われるから)、いろんな人の要求を受け入れてしまったり(受け入れない自分は嫌われるから)、といった行動がたくさん出てくるのです。相手の機嫌に敏感になり、常に相手の顔色を見ながら生活することになる、という事態にさえ発展するかもしれません。
これが高じると、依存性パーソナリティへと向かいます。自己の無力感と他者への依存が前面に押し出され、自分を低め不当なまでの自己犠牲を捧げてまで相手に合わせようとしてしまうのです。

と、ここまで、自己否定が強くなりすぎることの問題について書いて見ました。
他方で、思いっきり自己肯定してみたらいいのかと思えば、これも歪んだ形になると「過剰な自己愛状態」になってしまい、かなり困ったことになるのが難しいところです。

過剰な自己愛状態に陥った人は、自己防衛傾向が強く、自分の悪い部分を指摘されたり、自分がかまわれなかったり、自分が中心に物事が回らないと(例えば、コミュニケーションの場では自分中心に話題が進まないと)不機嫌になったりします。
自分にとって心地の良い言葉だけが選択的に聞こえてきて、「欠点」の認識が難しくなるとともに、「欠点」のある自分は本来の自分ではないと考えたり、周囲が指摘したことを「他人事」のように考えてしまうのです。

このような背景は、自己愛が傷ついているからこそ起こるのです。
過去に自己愛が傷ついたからこそ、心に穴があいたからこそ、それを埋めようとしてもがいて、それが「過剰な自己愛」として出てしまうのですね。

精神科医の岡田尊司さんは、

「自己愛が傷ついた人は、それを回復しようと、過剰なまでに自分の自己愛が満たされることを望む。自分だけを特別に敬い、大切にしてくれる存在こそが、その人の望むパートナーなのだ。」

と指摘しています。

気持ちはわかるのですが、過剰なまでに自己愛が満たされることを望むのはなかなかに息苦しいことではないかとも思います。というのも、そうやって常にあなたの要求を最優先でみたしたりあなたの話をニコニコ聞いている人なんて世の中ではどっちかといえば少数派なはずで(それは皆そうですよね)、だとすれば、いろんな社会生活の場面で「どうして俺に(私に)もっと注目してくれないんだ。どうして優先してくれないんだ」と苦しむ機会は多いように思われるからです。そうして、「どうして優先してくれないんだ」「どうしてこっちの話が中心にならないんだ」と無意識にでも思っていたりすると、それって知らず知らずに周囲に伝わっていたりもするものです。

恋愛場面について言いますと、愛って要求しすぎると相手にとっては重くなるものでもあるんです。
最初は愛の要求に応じることができていても、要求されすぎると苦しくなる。そして、要求に応えられないとそれに不機嫌になったり怒ったり拗ねたりする。ちょっとだったらいいですが、それがずっと続くと恋愛関係も機能不全に陥ると思うのですよね。過剰な自己愛(自己愛要求)は、恋愛場面でも、あるいは夫婦関係でもマイナスに働きうると思います。

お気づきの方もいると思いますが、過剰な自己否定と同じく、過剰な自己愛要求も、本当の意味でありのままの自分を受け入れていないことに端を発しています。
受け入れていないから、過剰に自己否定したり(それを場合によっては外部にアピールして関心を買ってみたりして)、あるいは自分が常に特別に(自分の満足のいく形で)愛されることを望んで、場合によっては(多くは間接的に)相手に過剰な愛の要求をしてしまうのだと思うのです。これらの問題は、表裏一体ということができるでしょう。

どうすればいいのか、というのはなかなか難しいことではありますが、まず、過剰な自己愛については、二村ヒトシさんの次の言説が参考になるでしょう。

「あなたが誰であろうと、あなたは断じて【なにか特別な人間】では、ありません。もしも「何らかの才能」があるのだとしても「なにか素晴らしい技術」を持っているんだとしても、なにか大きな仕事を世の中のためにすでになしとげた人だったとしても、なにかのいきさつであなたの名前があなたの知らない人々の記憶にも残ってるとしても、それでもあなたは【特別な人】じゃない。その人間が「特別かどうか」を決めることができるのは、本人じゃないからです。決めるのは「社会」でも、ありません。それを決めることができるのは、その人がそのときそのときで面とむかってる「相手」なんです。もっとかんたんに言うと、あなたがエラソーにふるまってもよいのは「あなたがエラソーにふるまっても、そんなあなたをキモチワルがらないでいてくれる人」を相手にしているときのみである、ということです。」

誰もが、【特別な人】ではなく、一方で、誰もが、誰かにとっての【特別な人】です。
そして、【特別な人】であるかどうかは、「相手」が決めることであって、自分が要求したり、押し付けたりするものではありません。

安心してください。誰もが【特別な人】ではないんですから、あなたは【特別】じゃなくたっていいんです。ただ普通でいいんです。誰かが相手にしてくれなかったって、特別扱いしてくれなかったって、それは世の中で起こっているごく普通のことだし、【特別】じゃないからといって落ち込んだりする必要はないのです。
ただ、誰もが【特別】じゃないからこそ、特別に愛を向けられたりしなくても、それは当然のこと、自然のこととして受け止める必要はあるでしょう。

【特別】じゃない、長所ばかりじゃない、ごく普通に欠点もある、そういう平凡な自分が世の中で平凡に生きていることを認めることが、過剰な自己愛(過剰な自己愛要求)から解放される近道なのだと思います。

他方で、自分に自信がもてない、自己否定傾向が強い場合はどうでしょうか。
自己否定については、他者との比較から生じていることも多いと思います。
つまり、他者と比べると、こういうところがダメだからという思考回路で自分の様々なところを否定していき、最終的には自分の全てが無力であるように感じるのです。
僕も、強度ではないにせよ、一定の比較癖があり、それに悩まされたりもするものです。

比較に苦しんだ場合には、次のような理解をしています。

まず、他者と比較する場合には、他者を正確に知る必要があると思います。でも、他者のことってそんなに正確に知っていますかね?
例えば、他者が幸せそうだ、それに比べて自分は・・・って考えちゃっているときの「他者が幸せそう」って本当に根拠があるのでしょうか。SNSなどのオンラインコミュニケーションはもちろん、オフラインの会話でも、人はブランディングを意識しますから、影の部分は案外見えなかったりするものです。

浜崎あゆみは「Appears」で次のように歌っていますが、こういうの、よくあると思うんですよね。

「恋人達は とても幸せそうに 手をつないで歩いているからね
まるで全てのことが上手くいっているかのように 見えるよね
真実はふたりしか知らない」

比較対象の他者のことが本当はよくわからないと考えると、そもそも比較すること自体、それほど意味はないという結論に至ることが多いように思うのです。

もう一つは、比較基準の多様性です。
比較する場合には、比較基準が必要となりますが、あるものが他のものと比べて優っている、劣っているという場合に、その基準は様々です。
ある点でみれば優れているが、ある点でみれば劣っている、という多面的な評価が可能なのが世界におけるごく普通のあり方だと思います。

例えば、経験10年の弁護士と新人弁護士を比べた場合、どっちが優れているかというと、答えは「どちらともいえない」が正しいと思います。経験豊富であれば、様々な知識があったりふるまいや論理力も上がっていくでしょうが、ただ、経験が多いと事件をみるにあたってフィルターがかかって、「あの事件はこう処理すればいい」という変な思い込みが生じる場合があります。でも、新人にはそういうフィルターがないから、思い込みを排して、まったく新しい解決策を思いついたりするということがあり得るわけです。

この例に限りませんが、なにかとなにかを比べて、どちらが優れているか、劣っているかを論じるというのは大変難しいものなのです。

こうやってじっくり考えてみることで、だんだんと「比較」によって自己否定をする傾向からは脱却していけるような気がします。

また、二村ヒトシさんは前掲著書(なぜあなたは~)で、自分を受容できるようになるための7つの方法として、次の点を挙げており、こちらも参考になるでしょう。

1 感情は、考えないで感じきる。
2 するのが「うれしい」ことだけをする。
3 自分の「未来」を忘れてみる。
4 「女らしさ」で悩まない。(男性からみれば「男らしさ」で悩まないってことですね)
5 セックスの時は、相手の目を見る。
6 「自分が、人から感謝されていること」に気づく。
7 「愛されようとすること」を、やめてみる。

特に7番は大切だと思います。
愛されようとするよりも、ただ愛することで愛が帰ってくる、そういうイメージのほうが生きやすい関係になるのではないかと思います。

ありのままの自分をただそのまま受け入れてあげることができるのは実は自分だけだったりします。そして、自分を大切にすることではじめて、本当に他者を大切にすることもできるのだとも思います。

「一番いけないことはさ 自分はダメだと思うこと」
「正しく生きようとする君は素敵だよ そんな自分を君も愛してあげてよ」
(UVERworld 「一滴の影響」)

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