>
>
>

いじめによる事件>山形マット死事件

いじめ撲滅

~ いじめによる事件 ~ 事件➄山形マット死事件

はじめまして!いじめ撲滅委員会代表,公認心理師の栗本顕です。私は学生時代、そうぜつないじめを体験して、大学院でいじめの研究をしてきました。

現在はいじめの問題を撲滅するべく、研修やカウンセリング活動を行っています。

いじめ撲滅委員会代表栗本顕

今回のテーマは
山形マット死事件
です。

今回の目次は以下の通りです。

・いじめの内容
・事件のその後
・加害者への処分
・事件後の誹謗中傷

いじめは事件にも発展する危険のあるものです。今まで起きてしまった悲しき事件の全容を理解し、二度と起こらないようにしていかなくてはなりません。

山形マット死事件から学び、しっかりと教訓として押さえておきましょう。

 

いじめの概要

山形マット死事件は、1993年に起こりました。概要は以下の通りです

被害者
男子中学生

加害者
男子7人
・A(上級生)
・B(上級生)
・C(上級生)
・D(上級生)
・E(上級生)
・F(同級生)
・G(同級生)

いじめの期間
1992年~1993年1月13日

場所
山形県新庄市

いじめは大まかに説明すると以下のような経緯になります。
 

1992年

・「イジリ」が「いじめ」に
Aは友達から「一発芸をしてみんなを笑わせる奴」だと聞いたことで被害者を知りました。学校の昇降口などで上級生に一発芸をさせられている被害者の様子を、Aは何度か見かけるようになっていました。

ある日Aと友人2人は、被害者を教室棟の階段に呼び出し、頬の肉を指でつまんでやる「たこ焼き」という一発芸をさせました。その時、Aが被害者の肩を殴り、友人が背中を殴りました。これが最初のいじめだったようです。

・妬みがいじめを加速
被害者は性格がおとなしく、無理やり一発芸をさせても応じてくれたそうです。のちにAは、反抗的な態度をとったり、騒ぎたてることがなく、黙って言いなりになる姿に目をつけたといっています。

また被害者が標準語を話すお金持ちの家の子であるという妬みもあって、いじめをエスカレートさせていきました。

1992年11月

被害者が卓球部で部活をしていた午後4時ごろ、Aは8人ほどの仲間を呼び出して、被害者をマット用具室に押しこめ、一発芸を要求しました。しかし被害者が、なかなかそれに応じなかったため、全員が殴る蹴るなどの暴行を加えたのです。

それから10日ほど経った日にも、被害者をマット用具室に押しこめ、一発芸をさせようとしていました。この時は前回よりも被害生徒の断る態度が強くなっていたのか、再び暴行が加えられました。

1993年1月13日

この日の夕方、被害者は学校の体育館用具室内で遺体となって発見されました。遺体は巻かれて縦に置かれた体育用マットの中に逆さの状態で入っていました。検死の結果、死因は窒息死と判断されました。

検視判断
顔面にはマットに圧迫されたことを示す赤紫色の腫れが見られたものの、顔面に擦過傷の痕跡は認められませんでした。このため検視の上では、暴行を受けマットに押し込まれたとする決定的な証拠は発見されませんでした。

後の公判において、この擦過傷がなかった状況を重要な論拠として被告弁護側が『被害者が自らマットに入っていった』などと無罪を主張することとなるのです。

事件当日、英語の塾に行く時間になっても帰らない息子を、おかしいと考えた両親は、近所を歩き回り探します。それでも見つからないため、所属する卓球部の顧問に電話をかけました。

「今日は私、部活には出てないんです。でも、学校に電話して聞いてみます」

そう言って教師は電話を切りました。午後8時15分過ぎ、両親の元に中学の教師から電話が入ります。

「見つかりました!○○君が”逆さ吊り”になって見つかりました」

被害者は、まだ学校にいた教師とすぐ隣の小学校の生徒を中心とするバトミントンのスポーツ少年団、そして同中学のバトミントン部の生徒の捜索によって、遺体となって発見されたのです。

遺体は体育館のマット用具室の中で、立てかけられてあったマットに巻かれた状態で逆さ吊りにされていました。

駆けつけた被害生徒の父親は、無残な息子の遺体と対面することとなってしまったのです。

被害者は顔が鬱血し、無残にも2倍くらいの大きさに膨れ上がっていました。パンパンに腫れ上がった頭部は、それが誰だかも判別できないほどだったそうです。しかし、よく見ると見覚えのあるその鼻筋や唇にかろうじて面影を父親は見たそうです。

事件当日、被害者に無理やり一発芸をさせるためB・Cが、体育館にあるマット用具室の前に、部活中の被害者を連れてきていました。Aもこの様子を見にきており、その場にはD・E、そしてF・Gを加えた7名がいました。

最初にBとCが一発芸を要求しますが、被害者は「えー、えー」と言ってなかなかそれに応じなかったそうです。それを見ていたAは怒鳴り、Eが被害者を殴りました。7人は体育館にいる他の生徒たちに見えないように、被害者をマット用具室に押しこみ、扉を閉めました。

それでも、引き続き被害者は断り続けていました。Aは「ちょっとこっちゃ来い」と被害者を呼び、顔面を殴りつけました。その後、Bが「足をふまれた」と因縁をつけ、被害者の足を蹴り上げました。Cはそこでさらに背中を1発殴りました。

被害者と同じ1年生のFまでもが「なぜ先輩の言うことが聞けないんだ」と顔を殴り、膝を蹴っていました。その後、加害者たちは一発芸をやらせるのはあきらめ、

「この野郎、生意気だじゅ」
「本当にむかつく野郎だじゅ」

と、一方的にリンチを加えていきました。そしてAは

「マットへ入れろ」

と怒鳴りつけました。

「助けてください。待ってください。許してください」

と被害者は泣き声をあげていましたが、聞き入られるわけもなく暴行は続けられました。

マット用具室の外にいたGが、室内に入ってきて被害者を蹴ると、今度はBがプロレス技をやろうとしましたが、マットに当たってしまい、失敗に終わります。プロレス技による暴行はさらに続けられ、Cなどはヘッドロックをかけながら、何回も被害者を殴っています。Aが、

「マット上げて、入れるべえ」

と言いました。被害生徒は泣きながら

「やめてください」

と言っていましたが、CとFが被害者を持ち上げて、マットの上にいたBが引っ張り上げました。そしてそのまま、マットに足から押しこみました。

「〇〇、お前は生意気だから、穴の中でそうしていろ」

とBが言うと、まだ胸から上が出ていた被害生徒は這い出ようとしました。押しこまれるのを抵抗しましたが、さらに数発顔面付近を殴られています。

「こいづ、本当に生意気だ。こいづは、逆さにして入れっぺは」

とAが言うと、Cはうつぶせに倒れていた被害者の腰を抱え上げ、頭の方を下にして別のマットの穴に入れようとしました。この時も入れられるのを抵抗したため、BとDとFが加勢に入りました。

「許してください。助けてください」

とマットの中から叫び声が聞こえても、7人の加害者たちは聞く耳を持たず、マット用具室を出ていきました。

Aはそのままマット室の前でBとEでバスケットをして、午後5時頃学校を出て、恋人とデートを楽しんでいたそうです。

被害者をそのままにしておいては危険だとAは知っていましたが「他の誰かが引き上げるだろう」と自ら救出に行くことはしなかったそうです。

 

事件のその後

被害者の葬儀があった1月18日、山形県警察は傷害および監禁致死の容疑で、死亡した生徒をいじめていた当時14歳の3人を逮捕、当時13歳の4人を補導しました。

警察の事情聴取で、7人の生徒は犯行を認めていましたが、供述までには口止め工作などが行われていました。

事件後の口止め工作・供述

・事件翌日
マット室での暴行のあった翌朝、Aは母親から被害者が亡くなったことを知らされます。登校したAは同じクラスだったDに口止めをしています。この日の昼、警察から前日の行動について聞かれましたが、

「体育館には行かない」
「〇〇君には会わなかった」

と言い通しました。聴取後、Eにもそれとなく口裏を合わせようとしています。夜9時頃にはBから電話があり、お互いに嘘をつき通す事を確認しました。

・事件2日後
翌15日朝にはCに電話を入れて口止めしています。Aは1年生であるFとGには口止め工作はしませんでした。

・事件4日後
1月17日、Aは2度目の事情聴取を防犯課のベテラン婦警から受けます。この婦警は母親のような存在として、新庄市内の非行少年も一目置く存在で、Aはバイク盗難事件でこの婦警に補導されたことがありました。Aは犯行をあっさりと自供し、この時にB・C・D・E・F・Gの名前を挙げています。

・事件5日後
翌18日、被害者の葬儀の日に、7人の少年たちが傷害監禁致死の容疑で逮捕されたのです。

反転する供述

その後、Aの自供と共に、他の6人の少年たちも各々全面自供を始めます。しかし早くも1月25日、供述を翻す少年が現れ始めます。被害者へのいじめでは、いつも先行して殴っていた加害少年は弁護士との接見で

「今まで言った事はすべて嘘です。実は被害者の顔もよくわかりません」
「僕は被害者に何もしていません。あの日、Bコートの方には1歩も入っていません」

と全面否認に転じていました。そして、他の少年達も次々と供述を覆していきます。

加害少年の弁護団は「被害少年は、ひとり遊びをしていて自分からマットに入って死んだ」という事故説をたてます。

やがて体育館で被害者と加害少年達を目撃していた元・生徒の中には「あれは嘘でした」と言い始める者も出てきたのです。当時、体育館にいた50人近くの生徒たちもほとんど「知らない。見ていない」と非協力的でした。結局、加害少年1人を除く6人が否認をしています。

 

加害者への処分

この事件では、裁判所の認定が二転三転し、少年審判の事実認定の難しさが浮き彫りになりました。被害者の命を奪った、加害少年7人はその後どのような処分を受けたのでしょうか。

1993年

・8月23日
山形家裁が3人を監護措置、3人を不処分にします。すると、監護措置となった3人が直ちに抗告をしました。

・9月14日
一方、補導された3人に対しては、2人に初等少年院送致、1人に教護院送致の保護処分が決定されました。3人は処分取り消しを求めて仙台高等裁判所に特別抗告しますが、「アリバイは認められない」として抗告は棄却されています。最高裁判所へ再抗告もしましたが、再び棄却されました。

1994年

そして7人全員に対し、刑事裁判の有罪に相当する保護処分が確定されました。これに対して、加害少年らは事故死を主張して山形地方裁判所に提訴しています。

1995年

遺族は、加害少年7人と新庄市に対して1億9400万円の損害賠償を求める民事訴訟を起こしました。この時、加害少年らは山形地裁への提訴を取り下げました。

2002年

・3月19日
民事訴訟に対して山形地裁は「事件性は無い」として原告側の訴えを退けました。これをうけ、遺族は仙台高裁に控訴します。

2004年

・5月28日
2審の仙台高裁は「複数の者が暴力を振るい、制圧して マットに押し入れた可能性が高い」として事件性を認定、自白の信用性も認め、加害少年7人に5,760万円の損害賠償を命じる逆転判決を出しました。これをうけ、加害少年らは上告します。

2005年

・5月9日
最高裁は上告を棄却、元生徒7人全員が事件に関与したと判断したため、5,760万円の支払いを命じ不法行為認定が確定しました。最高裁は仙台高裁判決を支持して加害少年側の上告を棄却、賠償判決が確定しました。これで民事裁判も決着しました。

2015年

原告側の代理人弁護士によると、結審から10年を経過した2015年時点で任意の支払いに応じた元生徒はいません。

損害賠償請求権は2015年9月には10年間の時効にかかることから、その前に時効の中断の手続として元生徒7人のうち4人には債権の差し押さえ等の措置がとられました。

残りの3人については、勤務先の会社が分からないなどの理由で手続が進まず、損害賠償請求権の時効を中断させるための提訴が行われました。

2016年

・8月23日
損害賠償金の支払いを遺族が求めた裁判の判決が下り、請求通り支払いを行うよう元少年2人(元少年1人に関しては給料の差し押さえにより訴えを取り下げています。)に対して、請求通り支払いをするように命じています。

事件後の誹謗中傷

一家への妬み

被害者一家は、地元で幼稚園を経営する仲睦まじく裕福な一家でした。事件の約15年前、新庄市に転入しため、一家全員が標準語を話していました。

閉鎖的な地域性からこの一家を「よそ者」扱いする、いわゆる村八分的な環境があったとする報道が、TVや新聞などでされていました。

地域性の問題

事件後「いろいろな繋がりがあるせまい町に住む人たちにとって、表に出たら事件のことを一言も口にしないこと」が続き、事件の関連記事を連載していた朝日新聞山形支局の記者たちは、取材現場で

「まだ取材しているのか」
「そっとしておいてくれ」

となんども追い返されました。さらに、学校の関係者を名のる複数の人物から

「いまさら騒ぎたてるな」

と抗議をうけたことを明らかにしています。

社会学者の内藤朝雄は、明倫学区でのフィールドワークにて被害者家族に対する様々な誹謗中傷を行う住民の声を聞いたと述べ、この地域に関する問題の根深さを指摘しています。

 

メッセージ

少年法改正への象徴的事件

山形マット死事件は、学校現場におけるいじめの深刻さを明らかにし、少年法改正への気運を醸成した象徴的事件です。「マット死事件」「マット事件」「明倫中事件」とも呼ばれています。

この事件をきかっけに、16歳以上による「故意の犯罪行為で被害者を死亡させた事件」では、家裁から検察官に「原則逆送」されるなど、少年犯罪の厳罰化と検察官の関与を推し進めた2000年の少年法改正に繋がったのです。

柔軟性と止める力を

この事件は、いわゆる「いじられキャラ」といった考えや歯止めが聞かなかった事、いじめ問題への敏感さがなかったことが大きく関わていると考えられます。また、標準語などの特徴について、その地域とは様子の違うものを「異質な物」として認識していたのではないかと考えます。

「こいつは面白い」
「何をやってもいいだろう」

といった考え方は、本当に危険なものです。

「相手は自分と同じ人間です」

同じように傷つき、同じように心を痛めます。人は自分たちと違ったものを排除したり、のけ者にします。しかし人間関係において、それは柔軟性のない証拠です。

柔軟性のある考えを持ち、誰かを傷つけることのないような関係を築いていくことが求められます。そして「冷静に物事を見極める力」「止めることのできる力」を養うこと、養ってもらうことを忘れてはなりません。さまざまな視点から児童生徒を観察し、抜かりのない支援が求められます。

お知らせ

いじめ撲滅委員会では、いじめのない社会を実現するべく、以下のような取り組みを行っています。

教育関係者向け講演,指導

教育関係者、学校向けのコンサルテーションも行っています。研修や講演に興味がある方は下記ページをご覧ください。

いじめコンサルテーション,研修,講演依頼-いじめ撲滅委員会

 

相談をご希望の方へ

いじめ撲滅委員会では、全国の小~高校生・保護者のかた、先生方にカウンセリングや教育相談を行っています。カウンセラーの栗本は、「いじめ」をテーマに研究を続けており、もうすぐで10年になろうとしています。

・いじめにあって苦しい
・いじめの記憶が辛い
・学校が動いてくれない
・子供がいじめにあっている

など、いじめについてお困りのことがありましたらご相談ください。詳しくは以下の看板からお待ちしています。

いじめ,カウンセリング

 

<主な参考文献>

朝日新聞山形支局 1994 マット死事件見えない〝いじめ〟の構図 太郎次郎社.
北澤 毅・片桐 隆嗣 2002 少年犯罪の社会的構築「山形マット死事件」迷宮の構図 東洋館出版社.
児玉 昭平 被害者の人権 小学館.
高嶋 昭 2003 山形明倫中事件を問いなおす 日本国民救援会山形県本部.
内藤 朝雄 2007 <いじめ学>の時代 柏書房.

助け合い掲示板

コメントを残す

いじめによる事件
YouTubeいじめ撲滅委員会動画一覧
栗本のお勧めサイト
児童虐待といじめ
いじめ防止対策推進法
いじめの定義
これまでのいじめ研究
代表講師の研究

日本からいじめをなくそう